=舞台に立つ者の心得として、是非身につけておきたい事柄=
京都の言葉で「はんなり」という言葉がある。上品で華やかなさま、ぱっと明るいさま。などと辞書にあるが、何とも標準語ではいいあらわせぬおもむきがあって、つい、そらぁ「はんなり」は「はんなり」やろなぁ、ということになってしまう。
舞台に立つ役者や歌手をみて「○○さんは華があるねぇ」などといってしまうが、これも仔細に説明できぬ言葉の一つで、辞書にしるされたような「はなやか、はでやか」だけではすまされぬ。
「華がある」に近い表現として「存在感」がある。「その独特の持ち味によって、その人がまぎれもなくそこにいると思わせる感じ」とこちらは少しばかり具体的である。
最近では「華」とか「存在感」などのいいまわしよりも「オーラ」とか「カリスマ」などのカナ外来語のほうが使われているようだが、「オーラ (aura) は、物体(特に人間)が放出する雰囲気、霊気などのこと」とあり、「カリスマは超自然的、超人間的、非日常的な資質、能力。預言者、英雄などに見られる。といささか神がかかり的な雰囲気となってくる。
オペラ演出家、栗山昌良氏の口ぐせに「最近の歌手は、声はでるけどドラマがないね、華がないんだよ」というのがある。更に「教育が悪いのかネ」と続くこともあるが、いわれてみると芸大の学生時代「華」や「存在感」について教育を受けたおぼえはないし、又自分の教員生活をふりかえってみても、これらのことについて学生諸君に伝授した記憶もない。
私も現役時代、「舞台では大きくみえる」とか「芸達者」とか「雰囲気あるね」などといわれたおぼえはあるが、それが実際、存在感なのか華なのかは定かではない。よしんばそれが存在感や華であったとしても、これらをどうやって身につけたかを説明するのは不可能なことだろう、したがって人様に会得の方法を教えるわけにもいかぬというものだ。
今は亡きプリマドンナ、マリア・カラスをみているとオーラや存在感は彼女のためにある言葉とさえいいたくなる。それまでのオペラが声さえ良ければ通用した時代に、視覚的な迫真の演技とドラマに即した歌唱力をとりいれたのだから華がないはずがない、おまけにギリシャの海運王アリストテレス・オナシスとの仲が報道されるに至ってはカリスマの本家とうわさされたのも道理であろう。
1956年メトロポリタン歌劇場でデューしたときの「ノルマ」、「ランメルモールのルチア」「トスカ」「椿姫」などは生涯のあたり役となった。
若い頃肥っていた彼女は。椿姫のヴィオレッタが肺病を患っているにもかかわらずデブでは格好がつかぬ、というわけで、数十キロの減量をなしとげたエピソードもあり凝り性だったらしい。オナシスとの仲がうらやまれたが、アメリカ大統領ケネディー未亡人ジャックリーンとオナシスとの結婚や自らの声の不調から1965年の「トスカ」でオペラを引退してからは1977年54才で亡くなるまで独身をつらぬいた。
彼女はジャックリーンとオナシスの結婚を知ったとき、親友ジュリエッタ・シミオナートに涙ながらに訴えたといわれるが、オーラに輝いたカリスマの本家、マリア・カラスの晩年を思うとトスカやヴィオレッタが重なりあって、なんともはかない思いがこみ上げてくる。それだけによけい、生前の彼女が舞台に立っていた時の印象がより強烈に増幅され、存在感や華のある歌手として人々の記憶に残ったのかもしれない。
「それはオテロとイヤーゴの二重唱からはじまった。NHKが未だ内幸町にあった頃のオケあわせでの出来事である。オテロはマリオ・デル・モナコ、イヤーゴはティート・ゴッビ。モナコの声はまるでトランペットの如く鳴りわたり、その密度の高い声の共鳴はホール全体を振動させる。”Dio vendicator”の最後のBを聞いたとき、私は身体の震えが止まらなかった」
2001年に出版した私の著書「芸大中退、未だ現役」の中に上記の様な著述が見られる。これが私とマリオ・デル・モナコとの出あいである。
華のある歌手のクイーンがマリア・カラスだとすれば、存在感のあるオペラシンガーのキングはマリオ・デル・モナコにほかならない。
「オテロ」「カルメン」「パリアッチ」「アンドレア・シェニエ」「アイーダ」すべての演目がモナコの存在感とオーラを軸として完成され、私の記憶の中に残っている。
彼は見た目の凛々しさとは裏腹に、舞台に上がる前など非常にナーバスな印象をうけた。舞台袖で隙間風が気になるとクレームをつける、舞台にでる直前迄、袖でカミサンがつきそっていた姿を目のあたりにして、大のモナコでも本番前はあがるものなんだ、と妙な感心のしかたをしたものだ。
モナコの上がり性はかなり有名らしく、オテロの本番直前、金縛りにあいカミサンが気付けのウイスキーを飲ませたり、俺はもうだめだ、これが最後の舞台になるだろう、などと口走ったりしたそうだ。大の飛行機嫌いで来日の際も船を利用したらしいが、上がるものはなんでもきらいだったらしい。
20世紀に最ももてはやされ、偉大なオペラ歌手として尊敬された2人の人物について考察してきたが、両人、共に華があり存在感があったことには異存はないと思う。個人的な問題についてはいろんな見かたもあろうが、一旦舞台に立つと、どうすればあの様なオーラを発散し観客を魅了することができるのだろうか。
マリア・カラスについていえばヴィオレッタを演じるための減量にも当てはまることだろうが、単なる凝り性を超えた藝熱心ではなかったのか。私も「蝶々夫人」は何十回と舞台をつとめたが、稽古場に入るとき、和服を着、雪駄を履いてでかけたものだ。このようなみづくろいをすることによって、芝居への集中力が高まったり良いアイディアに恵まれたりする。
マリオ・デル・モナコにしても演奏旅行で各国へでかける船中では咽にマフラーを捲いて一歩たりともキャビンからでなかったというし、「道化師」のカニオを歌った時は幕切れで本当に泣いたともつたえられる。自分が打ちこんでいるオペラのためなら、すべてを犠牲にできる心構えがみえてくる。
民衆の心をつかみ、一党独裁政治で全世界を第二次世界大戦に巻きこんだ、ファシズムの総統アドルフ・ヒットラーに存在感や華があっただろうか。16才の時画家に憧れウイーンにわたりワグナーにも心酔したといわれるヒットラーは1921年国家社会主義者ドイツ労働党党首となった頃、弁舌さわやかで民衆を引きこむすぐれたプロパガンダの持ち主として、その独特でagitationalなスピーチによって多くの党員を確保したとされている。
たしかに存在感やオーラやカリスマ性がなければ、いくらフォルクスワーゲンを生産し、アウトバーンを建設し、失業者を救済したところで、ナチ党総統にはほど遠い存在だったに違いない。だからといってヒットラーに華があるというわけにはいかぬのではなかろうか、とすれば存在感と華とは違った意味合いが生じることになる。
なるほど、考えてみれば悪人でも自分の存在を誇示し、まぎれもなくそこにいると感じさせることはできるだろう。ヒットラーに限らずシカゴ暗黒街のボス、アル・カポネ。イタリアのファシスト、ベニート・ムッソリーニなど。
一般市民、いや世界を震撼させた存在感の持ち主達である。我々舞台に立つ者は存在感なる言葉はほめ言葉とばかり思っていたが、世の中をジックリ見まわしてみると、決してそうでもない事情がみえてくる。
そして不思議なことに実際その人に会ったこともなく、話を聞きおよび。書かれた文献をひもといただけでも存在感を感じてしまうことすらあるのだからやっかいなものだ。
テレビを観ていてもほとんどドラマには興味をしめさぬ私だが、最近なぜか松竹映画の再放送「男はつらいよ」を観るようになった。昭和天皇も熱心に御覧になったと聞くし、小沢征爾氏もフアンらしいが。映画が上映されていた1970年代の若い頃は一度も映画館に足を運んだことはなかったのに、どういう風の吹きまわしか土曜日の夜の楽しみの一つとなっている。
ストーリーはイツモのヤツで安心して観ていられる吉本新喜劇と同じ、ワンパターンではあるが、ディテールに手のこんだ細工がなされていて、これが楽しみのひとつとなっている。
主演の車寅次郎、こと、渥美清さんとはもちろん面識がなかったにもかかわらず、まるで舞台での芝居を観たかのような印象を受け、ある種の存在感を感じるのも事実だ。
松竹映画のドル箱であり世界最長シリーズとしてギネスブックにまで載り、国民的映画となった背景には1世紀前の日本人がそこにいるからではなかろうか。文明開化後の明治この方、日本人は礼儀正しく、人情に厚く、質素をむねとして生きてきた。柴又と寅さんにはこれらが脈々と息づいている。
しかし実は「男はつらいよ」の存在感の中心は山田洋次監督にあると私は感じている。役者の個性と特質を見抜き、これだけの台本を書き、洒落たウイットを各所にちりばめ、素晴らしいカメラアングルの中に作品を集約する、そのくせ監督自身の姿はどこにもスクリーン上には見あたらぬが存在感を感じる。
存在感とは実に不思議なものといわざるをえない。善人にも悪人にも存在感は宿り、あるときは人々を感動させ、あるときは人類を奈落の底に突き落としかねない恐ろしさを感じさせる。又実際その人に会ったり見たりした経験がなくても存在感を感じることすらある。
まあ平たくいえばその人が感じる価値観なのかもしれない。各人の価値観、そこまでは良いとして、それから先どうやってこれらを身につけようというのだ。逆算してみると、人に価値観を抱かせるためには何が必要か、何が決め手になっているかを考えてみるのもひとつの手がかりとなるかもしれぬ。
馬があうという言葉がある。おたがい理由は明確ではないにせよ、何となく本能的に相手に気が置けないものを感じてしまう。人が誰かに価値観を抱くようになる原因の一つに、それが(この場合人物だが)自分にとって楽しく、心地よく、有難く、ようするに不快感を抱かないことが先決だろう。具体的な利害関係がなくても、その人の存在がうとましいものでなければ存在感を持つにいたる糸口になる可能性はある。これらのつきあいをとおして相手の存在を認め、価値観を感じ、その人の存在を感じるに至るのではなかろうか。馬があうだけでは存在感を感じる迄には至らない方がむしろ世間一般の話ではあるが、人間、五感以外の判断にたよることもないとはいい切れぬ。いわゆる第六感というヤツである。
まさにそれは第六感としかいいようのないできごとだった。大学で教鞭をとっている頃、私の講座に出席していた学生に歌手としての才能というか、資質というか、とにかく「この娘には華がある」と感じた学生がいた。いままで幾多の学生を育てて来た経験の中でこのような予感を持ったのはかつてないことだけに、むしろ私の方がとまどったくらいだ。もちろん、教育の場だけだはなく、日本のオペラ界で40年にわたって舞台をつとめてきた経験もふまえた上での話だ。
私はこの学生に関心を持ち、自分で育てて見ようと思った。理由は簡単、歌は教えることができるが、どうすれば華のある歌手になれるかは教えることはできない。したがって、もともと華のある娘を教えるのは教師冥利につきるではないか。しかし残念なことにその学生が師事している先生の問題などで私の願いはかなえられずに終わったが、今でもあのときの不思議な予感を自分でどう受けとめれば良かったのか結論を出しかねている。
松田聖子さんがまだ無名の頃、テレビで見かけてカミサンに「この娘、何て名前?」と聞いたが、カミサンは知らなかった。「今に売れるよ」何気なく云ったつもりだったが、後々これほどの大スターになるとは、云った本人ですら信じがたかった想い出がある。
まったく本能的にこのような感情を抱かせる何かを持っている人間も存在するという話。
なるほど、華や存在感というものは、理屈の上になりたっていて、これらを身につけるための手だてやノウハウがあるのではなく、人間の本能的な部分がこれらを嗅ぎわけ見つけだす代物なのかもしれない。つまり手順を踏めば誰でも簡単に身につくような習い事の世界ではなくて、もっと人間の本能的な部分に訴える本質的なものなのではないのか。
人間の本質的な部分に訴えるものがあるとすれば全人格的なもの、つまりその人の人間性、人格、感性、理念、英知、生きざま、すべてが問われる次元の問題となってくる。それらがまるで芳香を漂わすように、おのずとかぐわしさを放つ、人々は本能的にこれを嗅ぎわけ自分にとっての価値観を見いだすに違いない。
例えば歌手に例をとってみれば、声が良い、音楽性が豊か、演技が巧い、容姿が良い、気立てが良い、舞台上の態度が好ましい、観客を大切にする、数え上げれば切りがない。これらすべてとはいわぬが、いくつかが重なりあって人の心を揺さぶるのではなかろうか。しかし歌手本人は何と何が満たされれば華があると云う方程式は見いだせないのだから対策の立てようもなくなってしまう。こうなってくると華があるためのできるだけ多くの条件を満たすほか、手の下しようがないだろう。上にあげた7項目を達成するだけでも並大抵の努力では収まらぬ。
ここまで辿りついて存在感や華は並大抵な努力では手に入れることはできないのがおぼろげに見えてきた。そして自分の意のままになる問題ではないことも理解できたと思う。ではこれらを身につけることを人は断念するだろうか。
私自身についても自分に存在感があるや否やはわからぬ、しかし好きなオペラのステージに立ってより良い声、より良い歌、より良い演技を心がけたのは事実だ。昨日よりも今日の舞台をより良くつとめる努力はおこたらなかった。
人さまから「華がある」とか「存在感がある」といわれてみたいのは山々だが、そんな思いよりも、どうすれば声の響きが良くなるか、とか、あそこの演技のディテールがうまってない、などの問題解決に翻弄されていた。
人は死ぬまでより良い人生を願うものとか、例え華や存在感が手にはいらなくても、私は一生、美声学を訪ねてさまよい続けるに違いないと思う。



